2020年10月18日日曜日

パーソナリティーの変容と進化

 こんにちは。とってもお久しぶりになってしまいましたが、皆さまいかがお過ごしでしたでしょうか^^

すっかり秋になり、冬の気配ももうすぐそこですね。今朝は上空から白鳥の鳴き声が聞こえてきて、今年もようこそ~とちょっと嬉しく思っていました。

最近は秋らしく栗ご飯なんか作ったりして、栗の質の良さも相まってなかなかの出来に。元々は家族の好物で、面倒な栗の皮むきはいつもお任せしてしまうのですが、毎年その皮むきを極めた頃には(お湯に浸けておく時間の長さや、剥くタイミングなどなど)シーズンが終わってしまい、翌年には「あれ、どうやるのが一番良かったっけ?」となってしまうそうで(笑)、そんな所も季節物ならでは、特別感のある食べ物ですよね。

でも子供の頃は大の苦手で、毎回どんな小さな栗の欠片も見逃さす全て取り除いていたのですが、それをこんなに美味しく食べられるようになるなんて…としみじみしつつ、以前ArganzaのAmariさんがブログに書いておられたことを思い出していました。

ご自身の経験から、食べ物の好き嫌いの多い人はチャクラのバランスも悪いと考えるに至ったというお話で、そこに繋がる様々なことついても触れられており、うんうんと思いながら読んでいたのですが、そういえば自分を降り返ってみても、子供の頃は全くダメだったけれど大人になって食べられるようになったものがけっこうありました。

おそらく成長による味覚の変化もありつつ、私の場合は苦手なものでもなるべくクセが無く、質の良いものを何度かトライしているうちに自然と大丈夫になったというパターンがほとんど。美味しさに気付いたというか、わかるようになったというか。

例えば昆布やかぼちゃ、栗ご飯の栗(焼き栗などは大丈夫)、卵の黄身、グリーンピース、ねぎ、里芋(今もねっとりしたのは少し苦手)、黒豆、炭酸の飲み物などなど…今思いつくだけでもこんな感じですが、これらの苦手を克服できたおかげで楽になっているのも確かですね。

一方で生クリームや、落花生、牡蠣、魚や肉の内臓系などは具合が悪くなってしまうので(落花生などはアレルギーもあるのかも)、体質的に無理なものもやはりあります。

そういった無理なものは別として、食に限らず何にせよ“嫌い”はもちろん、強烈な“好き”ですらそれが過ぎると中毒みたいに囚われとなってしまうというのは良くわかる気がします。

好みの激しさを「自分らしさ」やアイデンティティのように感じている人や「何でもバランス・中庸となると…“私らしさ”が無くなってしまうのでは?」と思われる方も、もしかしたらいらっしゃるかもしれません。
けれど、本来のその人らしさというのは、好き嫌いなどで示される人格レベルの強烈な降り幅で表されるものなどではなく、より繊細で、荒々しさを均して行くことによって内側から溢れ出てくるもののように思います。

『メタフィジカルの目指すところは「バランス」であり、あらゆる囚われから自分を解放していくこと。』とAmariさんも書いておられましたが、私たちは転生し、様々な極端な経験を幾つも繰り返しながら、やがてバランスを学んでいきます。自覚の有る無しに関わらず、最終的には、自分がそれまでに身につけて来た様々な“色”を純化し透明な光へと還ることを目指している。

大人も子供も成長するには、好き嫌いも含めて、人格・パーソナリティーレベルで変容、進化していくことが不可欠で、私自身もそこと向き合う毎日ではありますが、それは食の好き嫌いと同じようにちょっとずつでも努力して克服することができるもの。
振り子と同じように、反動が大きくなってしまうようなものはできるだけ均して、バランスを目指して行きたいですね。

・・と、今回は栗ご飯から派生したお話でした(笑)

まだまだ寒さに慣れず、寒暖差も大きくなりがちな時期。皆さまもどうぞご自愛の上、素敵な日曜日をお過ごしください^^